福島地方裁判所白河支部 昭和35年(わ)75号 判決 1963年6月26日
被告人 菊地倉一
大四・四・一七生 農業
主文
被告人を死刑に処する。
押収してあるまさかり一丁(証第三一号)を没収する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、農業を営む菊地多利吉、同マサイ間の長男に生れ、尋常高等小学校高等科卒業後、肩書住居において家業である農業に従事し、その間熊田カネと婚姻して一男四女を儲けたが、昭和二〇年頃離婚し、暫くして、二児ある草刈イセを後妻に迎え、これとの間に一男一女を儲け、数年後同女の連れ子の将来を慮つて離婚したものの、昭和三〇年頃再び内縁関係を結び、更に昭和三五年一二月頃再び婚姻し、その間昭和三〇年頃、肩書住居近くの岩瀬郡鏡石村(現在鏡石町)大字久来石字大中島七番地に前記住居(被告人方で本宅と呼んでいる)とは別に、住宅兼製繩工場を建て、ここに家族と共に居住し、農業のかたわら製繩業を営んでいたが、その営業状態が不振で、福島県農林種苗農業協同組合、矢吹原土地改良区その他にいずれも数万円あての借金あるいは開田賦課金等の債務を負うてその支払に窮し、昭和三四年一月頃には、債権者である前記福島県農林種苗農業協同組合から強制執行を受けるという憂目をみ、かつまた所得税その他の税金も滞納している状態であつた。
ところで被告人は、昭和二八、九年頃以来、岩瀬郡天栄村の肥料商蕪木英(本件犯行当時三四年)から肥料を買入れており、同人に対しても、昭和三十一年秋と同三十二年春に講入した秋肥、春肥代合計五九、六〇〇円の支払を滞り、遂にこれに対する延滞利子を加えて合計六七、四〇〇円の約束手形を振出したけれど、その後も支払が意のままにならず、機会あるごとに同人から支払の催促を受け、その都度言を左右にして、支払を延引していたが、昭和三四年七月末頃には、前記手形債権につき、支払命令(金額六七、四〇〇円)を受け、漸く同人の催促も厳しくなり始めたので、とりあえず鏡石農業協同組合から二〇、〇〇〇円を借入れ、これが内入弁済をしたのであつたが、同年一二月一四日も残額支払につき催促の葉書を受け、また同月一九日頃には、前記天栄村大字白子字中屋敷五四番地の蕪木方で、同人から「一二月二五日までには必ず支払つてくれ、もし支払わないときは強制執行する。」などといわれたので、その日までに金策したが及ばず、同日同人方におもむき、再度支払延期方を懇願したところ、同人から「二八日までにはどうしても支払つてくれ。もし持つて来なければ、財産を差押える。」旨強く申渡される始末に、止むなくこれを約して帰宅し、同月二六日右鏡石農協にいき供米代金を受取ろうとしたけれど、代金から農具代肥料代等差引かれ、却つて、払込まなければならない状態であり、友人に農地を売却して貰い金策を得ようとしたことも果取らないうち、遂に約束の同月二八日になつてしまい、その日は蕪木の督促を恐れて同人方に行きそびれ、何の連絡もしなかつたところ、同日午後七時過ぎ頃、蕪木から「アスアサマツカブキ。」との督促の電報を受け取り、困惑の余り内心穏かでないままその夜は無人で無用心な前記本宅に泊りに行つて床に就いたものの、蕪木の強い督促が気になり、かつまた前記のように福島県農林種苗農業協同組合から強制執行を受けた際の嫌な思いを想起し、眠れないままに、彼此思い悩むうち数日来の金策のための心労と、翌日には定めし受けることあるべき蕪木の申立に基く差押に対する不安から、次第に追いつめられたせつぱつまつた気持になり、遂にその緊迫感に堪えられなくなつた末、かねて、蕪木が自己に対する貸金関係の書類を中古革鞄に入れていたことを思い出し、借金があるばかりに、このように苦悩するのだから、この書類さえなければと考え、浅はかにも、いつそ同人を殺害して借金関係の書類を奪取してしまおうと決意し、同日午後一一時過ぎ頃、鳥打帽子を冠り、その上からタオルで頬被りし、犯行に供するため長さ約八四糎のまさかり(証第三一号)を持つて本宅を立ち出で、前記製繩工場に寄り、そこからバイク(証第一六号)を引出し、これに右まさかりをつけて乗車し、同日午後一二時前頃前記蕪木方少し手前までいき、そこでバイクから降り、蕪木方まできて様子を窺つたが、家の中が薄明るかつたので、その附近の神社参道端で、その寝静るのを待受けたが、その間決行すべきかどうか再三再四思案にふけつた後いよいよ遂行に踏切ることにし、翌二九日午前一時三〇分頃右まさかりを手に、同人方北側裏口の戸を開けて屋内に侵入し、英をはじめその家族が就寝中の六畳間に入り、まず睡眠中の英の頭部および右手背を右まさかりの峰で数回殴りつけたところ、その妻ヨシイ(当時四四年)が物音に眼をさまし、上半身を起して「ああ」と声を上げたので、蕪木方同一屋敷内の北隣の隠居家にいる英の両親に気付かれて発覚されるのではないかと思い、ここに同女も英と共に殺すしかないとし、その頭部を右まさかりの峰で数回殴りつけ、更に長女節子(当時七年)が、これまた眼をさまして声を上げるや、右同様発覚をおそれ、はたまた同女をも同じく殺すしかないとし、その頭部を右まさかりの峰で数回殴りつけた後居間(囲炉裏のある部屋)の北西隅にあつた英所有の、書類等在中の中古革鞄一個を強取し、ヨシイについては、頭部打撃に基く脳損傷により、節子については、頭部打撃に基く脳損傷兼失血により、いずれもその頃その場で死に至らしめ、英については、翌三〇日午前七時福島県須賀川市字川岸の上公立岩瀬病院において、頭部打撃に基く脳損傷により死亡するに至らしめたものである。
(証拠の標目)(略)
(被告人の主張弁解に対する判断)
被告人の主張弁解のうち、主なものについて判断する。被告人は、
一 本件当夜、被害者英方へまさかりを携行して行つたのは、その途中鍜冶屋へ寄つてこれを修理に出そうと思つたからであつて、当初から英を殺害するつもりで携行したのではないと主張するので、この点について考えるに、被告人が、右のような弁解をするに至るまでの経過を見ると、被告人は捜査段階では、英を殺害するつもりで携行した旨を述べ、その後第一回公判でも自白していたが、その後精神鑑定の際にこれを翻えし、別宅(住宅兼製繩工場)の方で薪割りに使う必要があつたので本宅から持つて出た旨を述べ、その後昭和三六年七月一一日付上申書中では妻イセから別宅の方で薪にする木の根を割るに要るから持つて来てくれと頼まれていたので持つて行き、一旦これを製繩工場内の仕上機のところに片付けたのだが、何となく再びこれを持つて、英方へ行つてしまつた旨を述べ、その後第五回公判で、英方へ携行した際の心境について、そのときの気持はよく分らないとか、ただ何となく用心棒のつもりで持つて行つた旨を述べ、その後第八回公判で更にこれを変更して、現在のように弁解し、なお、第九回公判で鍜冶屋へ修理に出すつもりだつたが、途中、それより先に安田明男方へ行つて、金策の話をつけなければならないと思い、同人方前へ行き、屋内をうかがつたところ、同人の姿が見えなかつたので、そのまま英方へ直行してしまい、鍜冶屋へ寄るのを忘れたと述べている。そしてまさかりを携行して行つた理由は、本件が計画的でないことを主張する被告人にとつては極めて重要な点であるから、もし、鍜冶屋へ修理に出すつもりのところを、寄るのを忘れたというのであるなら、当然はじめからそのように述べる筈であるべきであるのに、何回もこの点に関する供述を翻えしていることは、被告人の弁解の真実性を著しく稀薄ならしめるものといわざるを得ないし、又年の暮も迫つた一二月二八日の、しかも午後一一時過ぎ頃、まさかりを修理に出しに行かなければならない必要性は至つて乏しいばかりか、途中鍜冶屋に寄るのを忘れてしまつたとの弁解は不自然で、とうてい人を納得せしめるに足るものでなく、他に右弁解を肯認するに足る何んらの証拠もない。
二 つぎに本件当夜被害者英方から革鞄その他一物をも盗つていない旨主張するので、そこで、この点に関する被告人の捜査段階および公判廷での自供が問題となるので、これについて検討することとするが、被告人は、警察での自供は警察官の誘導と、息子の就職の世話をしてやるという誘惑によつてなしたもので真実に反しており、また検察庁および公判廷での自供は、一度警察で自供した以上それと同じことを述べなければいけないと思つたし、これを翻えすことは、息子の就職の世話をしてくれた警察官に対し、情宜上忍び難いものがあつたからなしたものである旨弁解している。しかし第七回及び第一六回の各公判調書中証人栗城次雄の供述部分および同証人の供述によると、自供に際し警察官の誘導がなされたとは認められないし、証人土屋幸次の供述によると、なるほど同人が被告人の二男倉男の就職を世話してやつたことは認められるが、それは、被告人が自白をしたずつと後日において、被告人からの格別の依頼により、世話したものであつて、自供との間に因果関係の存在を認めることができず、その他一件記録によるも自白の任意性を疑わしむるような事情は見出し得ない。
そこで進んで、右自白の真実性について検討すると、その内容は、詳細かつ整然として首尾一貫しているばかりか、例えば盗つた革鞄の中を調べたら、中には仕切帳、送り状のようなものがあつただけで、目ざす貸借関係の書類はなかつた旨供述しているなど、真に体験した者でない限り供述できないと思われるようなところが多々あるのみならず、証人栗城次雄の供述および被告人の司法警察員に対する昭和三五年六月一九日付供述調書によつて認め得る、自供に至るまでの経過および自供時における被告人の態度に徴すると、その真実性はかなり高度のものと考えられる。
しかもまた、革鞄奪取に関する自供内容は客観的事実と符合している。即ち、前掲各証拠および証人清野福衛、同瀬和安治郎、同兼子辰雄、同兼子清の各供述を総合すると、本件の発生した翌々日たる昭和三四年一二月三一日、被害者英方附近一帯の捜索の行われた際、英方から東方へ三、四〇米隔つた空地の一隅に、基本選挙人名簿登録申告用紙その他数葉の紙片(証第四〇号の一ないし五)が発見されたが、右用紙類は本件当日以前に、天栄村々長から村内の各区長へ交付されたものであること、英は昭和三三年一二月二六日から翌三四年一二月二五日までの間、居村中屋敷の区長をしていたこと、本件当日の数日前、右用紙類と同種のものが英方にあつたこと、捜索の際右用紙類の発見された場所は、本件当夜被告人が兇行におよぶべく英方に侵入した際、バイクを置いた場所とほぼ一致すること、本件犯行の発覚した直後、英方附近には、右用紙類の発見された場所も含めて、当局により繩囲いが張り廻らされ、一般の立入が禁じられたので、右用紙類が事件発生後に捨てられた可能性はほとんどなかつたことが認められ、右諸事実と、前掲各証拠により認め得る、本件発生数日前まで英方にあつた本件革鞄が、本件の発生を境として見当らなくなつている事実を合わせ考えると、被告人によつて本件革鞄が奪取されたことは判示認定の通りというべきであり、革鞄奪取に関する被告人の自供は真実性に富んでいるものと認められ、従つて、これに反する被告人の右主張は信用するに値しない。
よつて、被告人の右主張弁解は、いずれも採用することはできない。
(法令の適用)
被告人の判示所為中、住居侵入の点は刑法第一三〇条、罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項に、各強盗殺人の点は刑法第二四〇条後段に該当するところ、住居侵入と各強盗殺人との間には、それぞれ手段結果の関係があるから、同法第五四条第一項後段、第一〇条により、結局犯情の最も重い蕪木英に対する強盗殺人罪の刑をもつて処断すべきところ、後記の情状を考慮し、所定刑中死刑を選択して、被告人を死刑に処し、押収してある主文掲記の物件は、被告人が本件強盗殺人の用に供し、かつ被告人以外の者に属しないから、同法第一九条第一項第二号、第二項によりこれを没収し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文に則り、全部被告人の負担とする。
(量刑の理由)
被告人の本件犯行は、被害者蕪木英に対し負担していた肥料買受残代金債務四七、〇〇〇余円の支払に窮した挙句、これが苦境打開のため、同人を殺害し、関係書類を奪おうという単純な動機に因るものであるが、このような動機から判示のように深夜英方に押入り、親子三人の尊い生命を奪つたうえ、単純な強盗の犯行を装うため手当り次第に室内を荒し廻つて逃走したもので、その犯行の態様は、まことに大胆不敵にして、残酷かつ非道というべきであり、また犯行後鞄の中に所期の書類が在中しないことを確認するや、これを河中に投棄し、帰宅後は兇器および着衣等を洗つて附着した血痕を落し、あるいは始末する外妻イセに働きかけてアリバイ工作をするなど、犯跡をくらますことに腐心し、犯行後の行動にも良心の呵責に悩んだと思われる形跡はなく、しかも公判等においては供述をつぎつぎに翻がえし衷心より反省悔悟しているかどうか疑わしいのみならず、被害者の遺族等をして計り知れない衝撃と悲嘆に陥入れ且つ日頃平穏な農村の人心に著大な衝撃を与え、素朴平和な閑村をして不安と恐怖の底に陥入れ、社会一般の安寧をも著しく侵害した点をも考慮すると、被告人の刑事責任は極めて重大なものといわなければならず、被告人が中年に至る今日まで難なく過して来たこと、本件犯行は英の強い督促に会つて決意するに至つたこと、英の殺害については酒勢を借りながらもその決行に至るまで逡巡し、内心幾分動揺の兆が見受けられないではなかつたこと、ヨシイおよび節子の殺害については計画的でなくむしろ偶発的なものと認められること、被告人は最近本件の債務を弁済した上被害者の遺族に見舞金を贈り慰謝の途を講じたこと、その他被告人に有利とされる一切の事情を斟酌してもなお所定刑中極刑を選択するのを相当と思料するものである。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判官 早坂弘 池羽正明 長谷川修)